店主紹介
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生い立ち編
終戦の爪跡が少しずつ薄れ世は復興の兆しが見えてきた昭和25年11月に、米どころ安曇野の南端、旧倭村の戦後、没落した農家に生まれる。親父の仕事の関係で長野県内を転々と移り住む、放浪生活。
(当時は単身赴任は稀でした。)
小学校3校、高校2校を経験する。
青春編
硬派の人生に踏み込む。
高校では柔道部に籍を置き汗臭い3年間を送る。2段を得て卒業。
地区大会優勝の原動力となるも己の限界を感じつつ、大学は花の大東京へ。
折りしも世は学園紛争真っ最中。投石と催涙弾の飛び交う神田駿河台へと登校するも白門はロックアウト。
さらに血と汗の4年間。
学に志したのも束の間、運動部の甘く強引な勧誘についふらふらと空手部へ。
「空手バカ一代」やブルース・リーの流行に先駆けて、ひたすら突きと蹴りの稽古に明け暮れる毎日。
地獄の特訓から逃げ出す先も金も無いまま月日の立つのも忘れ、気が付いたら4年の年月、楽しい思い出もほとんど無いまま、青雲の志も何処へか?
故郷信州安曇野に帰郷。
さらに続く硬派の人生。
人並み以上の体格を見込まれ踏み出す国技相撲の世界。
もののはずみで全国大会出場をはたす。
アマチュア相撲とはいえ4段を得て現役引退。地元の仲間と稽古を重ね空手もいつしか3段を受ける。
汗の臭い番外編
四方を山に囲まれた信州安曇野。
10歳の時に3千メートルを超える山(木曽御嶽山)に初登頂して以来、夏は毎年アルプス参り。今や北アルプスの山脈のそのほとんどに足跡を記す。
冬場はもちろんスキー狂い。
休日は乗鞍、大町、白馬のゲレンデへ日参。
リフトの待ち時間も、もどかしくスキーを肩にスロープを這い上がることも度々。
照明の消えた斜面を月光で滑走することもしばしば。
夏場のトレーニングに始めたテニス。
避暑地軽井沢での合宿や、ミックスダブルスとめずらしく軟派な世界に浸る日々もロマンスには巡り会えず。
国体予選出場するも2回戦敗退。
(1回戦はクジ運にて不戦勝しました。)
店主職歴
地元金融機関に職を得て20年、在職。
(決して市中金融やサラ金ではありません。当時はまだクレジットカード会社も無かった時代です。)
自己と家庭の都合により退職。
その後、地方のゼネコン、ハウスメーカーを経験ののち不動産業を営む。
その傍ら、保険代理店として資産運用のアドバイスも。
ウイークエンドファーマー。
わずかに残った農地は無農薬野菜栽培にて自給自足。
晴耕雨読の生活。
安曇野の光と水で育てた手ずからの四季の野菜の収穫に無常の喜びを感じている今日この頃でございます。
店主の生きがい編
家族編。
愛妻1人、2女2男。(貧乏人の子たくさん?)
大正生まれの母、大学のキャンパスから拉致してきた猫1匹。
趣味道楽編。
相撲の延長で始めた相撲甚句はCDを2枚リリース。
(もちろん自費出版です。)
海外公演もいく度か経験。
(海外旅行の折に無理やり?聞かせた。)
松本市で近年、有名になったSKF(斉藤記念オーケストラフェスティバル)では小沢征爾氏の指揮のもと、自慢の喉を披露する。
(本人は共演したと思い込んでいる。)
ライフワークは五・七・五。
俳句は祖父の代より、なじみが深く、地元の句会で20年を数える。
全国的な俳句の団体「萬緑」(中村草田男を始祖)では同人をめざし、連日、苦吟の生活。
俳号、百仙を授かる。
屋号の「ひゃくせん」もこれに因んで付けました。
病膏肓。
俳句の添書に始めた手慰みの俳画(水墨画)も個展(らしき催し)も数度。
頼まれて開店祝や事務所開などの時に色紙を認めております。
ご希望がございましたら、どうぞお問い合わせください。
店主ギネス編
1967年8月1日、高校の集団登山の時に11人の学友を失った西穂高岳山岳落雷事故に遭遇し、九死に一生を得て生還しております。
その後の人生も決して平坦ではありませんが。
信条
会ふ人も、また会う人も福の神。
信頼で結ばれた人と人とのネットワークを第一に
縁を大切に生きております。